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隣の家の少女【映画】

2017/09/23


 ストーリーや年代設定、キャラクターは、原作小説を忠実に再現しています。主人公のデイヴィッドが後年このエピソードを振り返るという構成も小説のままです。少年時代のデイビッドとメグの出会いもそのまま。ただ、小説の前半の長い日常シーンは省略されています。あれを描いていては映画としてひじょうに間延びしてしまうでしょうから、それで良いと思いますが、登場する子供たちがどんな素性と性格を持った子たちなのかということは、映画ではほとんど触れられていません。
 活発な姉のメグに比べて、妹のスーザンは内気でおとなしくあまりしゃべりません。可愛いドレスを着ていて人形のようです。里親のルースに抵抗することもなく、ルースのメグに対する虐待にも口出ししません。彼女は薄情なわけではなく怯えきっているんですね。交通事故の後遺症で両足に歩行補助具を着け、自分の無力さをかみしめています。
 無抵抗で目立たないスーザンにはほとんどかまわず、ルースの虐待の矛先はメグに向けられます。彼女の身勝手な理屈に、彼女の息子たちは納得させられ、メグをはずかしめ傷つけることへの興味をどんどん増長させて行きます。母親公認の女の子いじめは、無分別な子供たちにはたまらないご馳走であったようです。加害者はルースの3人の子供たちにとどまらず、近所の悪ガキたちをも巻き込んでゆきます。

 小説のあまりにも残忍な描写に思わず絶句しましたが、映画ではさすがにそこまで残酷な描写はありません。ただ、被害者が少女であるがゆえに、よくあるバイオレンスをテーマにしたホラーやサスペンスにはない痛々しさがあり、加害者もまた子供たちというところもひじょうに恐ろしいです。
 小説の感想では、このシチュエーションを魔女裁判と評しましたが、映画でもその印象が充分に伝わってきました。訳の分からない理屈で正当化された暴力に耽溺する人間の狂気がよく描かれていると思いました。残忍な行為に手を染める子供たちそして母親たるルースも、自分たちが何をしているのか解らなくなっています。そしてこうした異常心理は社会のあらゆるところに実在します。

 悪魔の儀式に参加しながら、メグに唯一手を出さなかったデイヴィッドは、映画では一貫してその正義が描かれていますが、小説版では彼が卑怯な思いに囚われたり、ボロボロになったメグを見て、嫌悪感を催したりと、悪魔の誘惑にそそのかされそうになるシーンがいくつかあり、後年彼はそのことを悔いています。彼にもっと勇気があれば、惨劇は防げたのかもしれない、その思いは生涯デイヴィッドを苦しめることになります。

 デイビッドがメグを逃がそうとしたことがばれて、彼もまた幽閉されてしまい、絶体絶命のピンチからクライマックスに至るくだりは、小説版とは少々異なっており、ちょっと急ぎ足であっけなかったです。それを言うと多くのシーンが小説ほど克明には描かれていないということになってしまい、時間枠に囚われた映画の宿命を云々する根本論になってしまいますが、それにしてもここはもう少し尺を取って念入りに描くべきだったと思いました。

 人が人に不当な暴力を揮うという行為は世界中に蔓延していますが、それを人間の本性のようにはやはり思いたくないです。残忍性や破壊行為は人間のひとつの側面であるかもしれませんが、それを実際に他人に対して行使することは、人としての当たり前の行ないではありません。
 暴力を題材にした映画は、世の中に満ちあふれていますが、それは人々に暴力をもたらす誘因のひとつになっているのでしょうか。人が傷つけられる映画を作ったり、それを嗜好することを非道徳的であるとして避難する人も少なくありませんが、虚構の暴力と現実のそれはまったくちがいます。虚構と現実を使い分けできないことがむしろ深刻なのです。
 筆者の知る多くのバイオレンス好きの人たちが、心優しく豊かな感性をお持ちです。そういった人たちの中には子育てをする女性も含まれます。虚構にとってなにがおもしろくて、現実にとって何が悪行なのか、しっかりと見つめましょう。
 無知であり無関心であることが、得てして差別や魔女裁判を受け入れてしまいます。ひどい目に遇っている人を見て、当然だと思ったり仕方ないと思ったり、自分とは無関係だと思ったり、そういうことが本当に恐ろしいのです。
 筆者のとある知人は、凄惨な殺戮が繰り返される映画を観て、悪党の胸中にある高い理想の裏に秘められた排他主義や残忍性について学んだとおっしゃっていました。理想はしばしば人々を差別や対立、暴力へといざないます。彼の場合、暴力的な映画を観て、暴力のおもしろさを学んだのではなく、その愚かさ醜さを学んだわけです。

 現実に行なわれる暴力は、虚構のそれのようには強調されていません。被害者がどれほど恐ろしい目に遇っているのか、傍観者は気づかないことが多いのです。そして怯えている者、人の和に溶け込めない者にイライラしたり、嫌悪感を抱いたり、そういったことがすでに暴力の始まりです。そして自分が被害者になるのはごめんだから加害者を非難しない、無関心を決め込む、加害者側に着く、それが暴力です。
 暴力に立ち向かうのはひじょうに困難です。加害者は組織化し、卑怯な手を使って来ます。親の財力や権力を味方につける場合さえあります。ひとりの勇気というのは本当に無力です。多くの勇気が団結しないことには暴力を退けることはできません。
 メグを守れなかったデイビッドもこの問題に直面していました。
 学校という場が、知力体力を競わせ優劣を決めるだけのくだらない場所ではなく、人と人とのコミュニケーションや協調性を養うための場所なら、世の中はもっと変わってゆくでしょうね。デイビッドも周りに相談相手を見つけることができたでしょう。

原題:The Girl Next Door。
2007年アメリカ、91分、2010年日本公開。
原作:ジャック・ケッチャム。
監督:グレゴリー・M・ウィルソン。
脚本:ダニエル・ファランズ 、フィリップ・ナットマン。
出演:ブライス・オーファース、ダニエル・マンチ、ブランチ・ベイカー、グレアム・パトリック・マーティン、ウィリアム・アザートン、ベンジャミン・ロス・カプラン、マデリン・テイラー、オースティン・ウィリアムズ 、グラント・ショウ、キャサリン・メアリー・スチュワートほか。

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