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アズミ・ハルコは行方不明【小説】

2015/02/13


 久しぶりに大変おもしろい小説を読みました。山内マリコの小説は最近になっていくつか読んだのですが、この作品はお話しの構成からミステリアスな内容から、爽快な読後感まで、いろんな面でとても楽しめました。恋愛や友情や人間関係だけのお話しとちがい、ひじょうに社会性も強く、現代社会の内面に潜むもうひとつの社会を見るようで、興味深かったです。自立して社会人として歩き始めようとする若者たちの精神世界とでも言いましょうか、ひとりひとりの思いが巧妙につながって独特の世界が存在しているんですね。登場人物は多くないですが、ある意味ひじょうに広大な世界を描いています。
 誰にだって現実とはちがうもう一つの自分の世界みたいなものが存在すると思います。若い間はそれが現実になる可能性を信じたり、現実との区別がつかなくなったりし、極端な例では常軌を逸した行動に出たり、そうしたい衝動に駆られたりします。
 歳を重ねた大人たちが忘れてしまっている若者たちの奇妙で不可解で、ともすれば反社会的な精神世界、それを青少年の犯罪といった形で描いた作品はよくありますが、この作品では、一見べつべつの精神世界がつながっていて、大きな世界を構築しているところが面白いですし、またリアルでもありました。そしてそれは新興宗教への盲信や集団自殺といったものともまったくちがいます。もっと我々にとって身近でありながら、多くの人たちが気づいていない世界です。
 若い頃は何にでもなれる気がした、何も怖くなかった、そんなことを語る大人が多いですが、それは過ぎてしまったから言える言葉ですよね。年とともにいろんなものをあきらめ、若い頃にはそんな大人にはなりたくなかったというものに、けっきょく自分もなってゆき、なってみればそれに慣れてしまい、必死にもがいていた頃が愚かに思えてしまう。でも、大人になっても、老齢になっても自分だけの世界を持っている人たちだってたくさんいます。

 筆者は、若い頃は無心に本を読み、アニメや漫画にハマり、物語を書き、虫や自然を観察し、それらを記録に付けていました。同人誌を作り、それに思いをぶつけてきました。同人誌の仲間とは、書くジャンルに共通性がなくても、創作意志でつながっていました。その仲間には、プロの作家を目指さなければ同人活動の意味がないという発想の人もいましたが、筆者は作家になりたいという思いは希薄でした。自分のなりたい職業なんてこの世には存在しないような気がしました。自分の書いたものを多くの読者に読んでもらいたいという気持ちはありましたが、それはあまり重要なことではなくて、とにかく自分の中のものを吐き出すことが大切でした。目的意識以前にとにかく書きたいという衝動は、バイクのマフラーに穴をあけてツルんでる奴らとまったく変わらないなぁ、そんな自覚がありました。誰も賛成してくれませんけど。今でもそうですが、書き終えたらそれでおしまい。読み返したり推敲したりということは、よほど気に入った作品でない限りやりません。だから今でも筆者のブログは乱文と誤字であふれかえっていると思います。
 本腰入れて作家を目指そうかと思ったこともなくはないでした。でも、なにかがちがう気がしていました。文筆業で食って行けるって人はうらやましいとは思います。でも、仕事で書かなくちゃならないのってどうなんだろう、今みたいに自分を見つめたり、自分の思いで書いたりできるのだろうか、そんな不安が残ります。仮に筆者が文筆業を営むことになったとしても、おそらく職業以外のものを趣味でせっせと書くのでしょうし、なかなかその時間が持てないことにいらだっていることでしょう。であれば、現状と差異はありません。
 書くことは、自分にとってコミュニケーションです。このブログには今のところコメントはいただいたことがありませんが、生き物のブログではコメントをいただき、筆者の知らない考え方を教えてもらったり、誤りを指摘していただいたりしました。それと何よりも、未来の自分との対話もひじょうに重要です。未来の自分に語りかけても返事が返るのは数年後あるいは十数年、数十年後になりますが、書き残さないと返事もできません。返事をするというのは具体的に感想を書いたりするのではなく、読み返して感じるだけなのですが、それで自分がどう考えどう生きてきたかが解るわけです。
 ものを書かず、考えたこと感じたことを記録もせずに生きているということが、筆者には信じられません。おそらく書かない人たちの方が多いのでしょうが、そしてそうした人たちの方が、世情に通じ社会をストレートに受け入れられているのでしょうが、やっぱ筆者のようなものにはそれは無理です。
 小説や漫画や生き物たちに出会っておらず、バイクと煙草に出会っていたら、筆者も暴走族になっていたのでしょうか。なっていたかもしれません。メカとかスピードとかスリルとかもけっこう好きです。その世界で筆者は何を学びなにを考えたでしょうね。上辺では筆者は一般サラリーマンの社会にいますが、サラリーマン社会に友だちは少ないです。社内で親しいのは会社に楯突いてるような人間だけです。
 筆者にとってものを書くことも暴走族になることも違いはないのだという話しを、職場の同僚にしたことがありますが、それじゃあ筆者の本質は悪党なのか、という質問が返ってきました。悪党……ですか。なかなか良い響きですが、そんなカッコイイものでもありません。そもそも善悪という判断基準がナンセンスです。善悪なんてもっとも主観的で独善的な価値判断に過ぎません。

 作品のお話しにもどります。
 木南愛菜は、キャバ嬢を辞めて悶々としていたところで、旧友の富樫ユキオと出会い、肉体関係を持ちます。ユキオは軽薄で情のない男で、たまたま出会った三橋学と退屈しのぎに路上アートにハマり、愛菜も仲間に引き入れます。いくらか絵心のある学は、ユキオにそそのかされるままに缶スプレーで街中に落書きを描き続け、やがてハルコのステンシル画を完成させます。街でたまたま見つけた尋ね人のポスターの写真の女性を拡大し、版型を作ったもので、それを街の至る所にスプレーして回ったところ、ネットでウワサになりテレビのニュースにもなります。
 ユキオと学と愛菜の路上アートチーム"キルロイ"は、本来なら街を落書きで汚す犯罪者集団ですが、彼らは次第に英雄になってゆきます。
 以下はネタバレになります。

 ある時、ユキオはSNSで知り合った女子高生をモノにしようとするのですが、それは少女ギャング団の罠で、女子高生たちはSNSで釣った男を集団で襲撃していたのでした。ところが待ち合わせ場所に誘った学に少女ギャング団の魔手が伸び、ユキオは学を裏切ってさっさと逃げてしまいます。駆けつけた警察官の調べで、学はハルコのステンシルを使って街中に落書きをしていた犯人であることがばれ、お灸を据えられることになるのですが、その後、町起こしのイベントを企画した名の知れたプロデューサーの目に彼のハルコが止まり、彼はアーティストとしてイベントへの参加を要請されます。学が街頭落書きの犯罪者から路上アートの名手に転身したことを知ったユキオは、彼を裏切ったことをなかったことにして、飄々と舞い戻り、ちゃっかり学とのチーム再結成を実現させてしまいます。そのことをテレビのニュースで知った愛菜は、自分がユキオに棄てられチームからも除け者にされたことに絶望し、イベント会場で自殺してユキオに復讐してやろうとします。睡眠薬を大量に飲んで昏睡していた愛菜を救ったのは、尋ね人の安曇春子、"キルロイ"を有名にしたハルコのモデルになっその人でした。
 とある場末の小さな映画館で「スプリング・ブレイク」という少女ギャング団を描いたアメリカ映画が上映されるのですが、そこに総勢200人の女子高生が殺到します。ちまたを騒がせていた日本版少女ギャング団大集結です。情報をつかんだ警察は、これを少女ギャング団を一網打尽にする好機とし、映画館を包囲しますが、相手は女子高生という魔物。魔物が200人、どう考えても憂鬱です。女子高生相手に威嚇射撃をするわけにも行きません。終演後、ワラワラと出てきた女子高生たちに、警察官はとりあえずおとなしく投降するように呼びかけます。少女ギャング団絶体絶命か、しかし彼女たちは思いも寄らぬ武器を持っていたのでした。

 お話しの最後を飾る、少女ギャング団の大捕り物はなかなか圧巻のシーンです。そしてその意外な顛末。筆者はこのラストがひじょうに気に入り、この作品が大好きになってしまったのですが、読者の中には、このエンディングに辛い評価をする人も少なくないでしょう。少女ギャング団の一発逆転劇にも批判が集中しそうです。でも、このエンディング無くしてこの小説はあり得ません。冒頭に登場し、学を襲撃するものの本筋とは直接関係のない少女ギャング団は、仮にこれを映画化したとして、その際にばっさりカットしてしまったとしてもお話しには影響ありません。読者の中には、少女ギャング団それ自体がナンセンスであり、不要のものと思う人もいるでしょう。
 では、少女ギャング団の女子高生たちひとりひとりの精神世界について思いを巡らしてみてください。そしてそれがつながってギャング団という世界観が構築されていると。
 作品の冒頭に少女ギャング団がまず登場します。少女たちによる"男狩り"の被害者たちは女子高生にやられたという屈辱感から被害を届けたがりません。被害者の証言を得られず、曖昧な目撃証言やネット上のウワサばかりが先行し、警察も頭を抱える状況です。しかしそれはネットを通じて拡散し、被害は拡大傾向にあります。
 このユニークなギャング団のお話しをスピンオフ作品として作ってもおもしろいな、最初はそう思いました。ところが読み終わったあと、この小説は、ユキオや学や愛菜たちのエピソードを借りた少女ギャング団結成の物語なんだって思いました。チーム"キルロイ"がハルコのステンシルを完成させ、街中をハルコで染めていったのと、ネットを通して少女ギャング団が増殖して行ったこととは、無縁のものではなかったのです。チーム"キルロイ"がたどった運命と彼らの精神世界を見れば、少女ギャング団の発生と増殖とその顛末が理解できるはずです。
 であれば、少女ギャング団を主役に、チーム"キルロイ"を脇役にして物語を作るのもおもしろいかもしれませんね。
 少し意地悪な見方ですが、作者はこの作品のエンディングに自信を持っていたのだろうか、そんなことを思いました。表層的な見方をすると取ってつけたようなこの終章を、どれだけの読者に理解してもらえるだろうかという不安があったんじゃないか、そんな疑問が頭を過りました。この爽快で感慨深い終章はもっと肉付けしてもっと引っ張るべきでした。たとえば学を襲った少女たちにキャラクターを与え、終章でも重要な役割を担わせるとか。少女ギャング団にもう少し人格を与えてほしかった、そう思いました。
 この作品は、内容を忘れないうちにもう1度読んでみたいと思っています。

2014年1月発行、冬幻舎。
著者:山内マリコ
書下ろし

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